水曜日, 10月 17, 2012
月曜日, 10月 01, 2012
労働者派遣法改正が施行
例外規定があって、ソフトウェア開発も「例外」で日雇いはOKの様子です。注意書きでは「日雇派遣が常態としてあり、かつ、労働者保護の観点から問題のない業務が、労働政策審議会での議論の結果、例外として定められました。」だそうな・・。
それと、職業紹介業についてはグレーゾーンのままで偽装請負については容認されるわけで、業態をただ変える手配師が多くなるといった懸念もあるらしい。
派遣が在りか、なしかという漠然としたことではなく、労働者も雇い側も、どんだけマージンとっているのかとか、逆にその会社の社員の賃金水準が派遣社員への報酬に反映されるなど、透明化する方向性については評価したいけど、その金額をみて「考える頭」が、いまの派遣社員ひとりひとりにあるのか、いささか疑問。
つまり、プロ根性があれば内部性:自分の労働市場価値、外部性:勤務先会社の市場性や成長性、さらには(人・もの・かね・情報)脈とか、しっかり考えて、派遣という仕組みで働くことが適切なのか、おのずと答えがでるだろうけどプロ根性がないとまでは言わないけど、諸事情もなく、ただ派遣でいいや的な人たちは、相対的にみればプロ根性については希薄といえるとおもえるのが派遣社員の実情だとおもうので、これを機会に制度以上に、派遣で働くということに従事者自身がしっかり考える頭をもつ癖ができるよう期待したい。
木曜日, 9月 27, 2012
土曜日, 9月 22, 2012
月曜日, 9月 17, 2012
土曜日, 9月 08, 2012
なるほど、twitterがあれな訳だ。
通常は、アイデアをコピーしてタイム マシン経営でクローンにチャレンジする もので、ツイッターのようにサービスそ のもののクライアントを作ることはしま せん。 というか普通はできないんです...
http://lite.blogos.com/article/46395/
木曜日, 9月 06, 2012
SSH Bruteforce 72時間でやられました
日曜日, 8月 26, 2012
木曜日, 8月 23, 2012
渋谷だからアレだ
七年ぶりくらいで渋谷で仕事。
歳をとったというか、神田や大手町や品川界隈の仕事が多かったからか、アウェーな感じが暫くぬけなかった。
ノストラジーなアレではなく若い人が景色を変えるのだなと実感。
普段の観ているモノは、ちょっとずつ変化している。変化のなかに許容があり、受入れるし受入れられもする。
こと渋谷のワカモノは変化というより自分がソコカラ阻害されてしまったかのような感覚で少々、萎縮してしまう。
土曜日, 8月 18, 2012
木曜日, 8月 09, 2012
内製化がススム。
サプライチェーンのように、ある意味わかりやすい産業構造とちがって、モノがないといってもいいような「あっちの世界」でのシステムエンジニアリングが「クラウド」という呼ばれ方をしだして、人が「見える」こっち側の世界にいるべき論が、あちらこちらから聞こえ出した。
ハードウェアベンダーとソフトウェアベンダーという位置づけで、ユーザ企業は委託開発で納品されたシステムを「使えない・・」と文句のなか高いからしかたないといった妥協でシステムに使われていた悲惨な状況が、するっと変わってきている。
無論、この背景にはマネタイズできているシステムを内包しているといった前提条件が必要なわけだけど、そういう企業は少なくないし逆にそういう企業でないと成長できていないわけで。
他方、自分のようにフリーで働く立場からすれば、これはもう気がかりな転機といわざるをえない。内製化するということは、あるていど長期的な人材教育とか、スペシャリティとか、開発マネージメントとかもろもろのことに投資しなくてはならないけど、それを回収できる見込みがあるわけで、外部に発注してしまって、ユーザとしての観点でシステムに接するだけっていう風潮が180度かわるわけなのである。
したがって、(もちろんいいことだと歓迎したいけど)納品物でお金をもらう今までのやり方ではなく、エンジニア・リソースとして納品ではなく、クライアント企業の内製化したシステムライフサイクルの回し役になるような方向に切り替える必要がある。
いいかえれば、要求仕様から設計、構築、テスト、導入、運用といったプロセスでできたモノに対してエンジニアの価値を発揮するのではなく、エンジニアリングそのものに対する知識や技術力、さらには経験を価値として提供することになっていかないとならない。
まぁ、そういう意味で言えばかねてから業界タブー的な商流のブラックなところが嫌いな自分としては業界にはびこるブローカーな人たちは、そんなエンジニア個人のスキルセットへの価値の転機について見抜くすべがないから、つぶれてくれることを期待している一面もあったりもする。
この流れは、アウトライン的に考えればプロセスイノベーションなんだろうけど、マインド的には価値観のイノベーションになるから、相乗的な大きな流れになってきているのかも。
背景にはエンジニアリングとはいえ、インターネットにつながってお金になるモノっていうのは、オープン主義でデファクトスタンダードで情報量も多いし、たずさわるエンジニア人口も世界中で同時進行になるから圧倒的に多いし、金儲けもシンプルでスマートになれるっていうこともあるんだろう。
日曜日, 7月 29, 2012
Xperia で Android 4.04
土曜日, 7月 21, 2012
山に行きたいと思う。
そうそう。少々、身体が鈍ったので鍛え始めて、ベンチマーク的にどんだけまだまだいけるかを確認する感じの登山をとおもいなかなか行けずな状態でした。(至仏山以来、登山らしいことはしていない・・ので)なんで、夏にちゃんと予定をどっかでとって行こうとおもってます。めざすところは、ベンチマーク的なあれもそうですが、登山の魅力にも少々興味があって日本百名山 のALL登頂なことによくある感じでしてみようかなと。目標はたかいところにしとけといった文字どおりです。
そんな感じでにわかな、登山好きな人になろうとおもうのですが、何が楽しいかというと自然の中でとくに2000m超えると森林限界を超えた高さで景色が一変したり、気候も下層雲より上だから積雲(わたぐも)がない、飛行機の窓から見るような景色も垣間見れたりする体験がやっぱすごいと思うわけで、それも自分の足で登ってきていることを実感すると、またこれがイイわけで。
ここで1つどうしようかとおもうのが、一人登山がいいのか、何人かで行くのがいいのかってことなのです。
登山客が多い山であれば一人登山でも、少々安心できるし、山小屋とかパトロールされている警備の人たちとかもいることが多いけど、そうじゃない山も多い。何かあったら、それこそ自分の心配がいちばんあれだけど、「他人へ迷惑をかける」ということが厄介な問題なわけで、そこを他人というくくりよりもちょっと近しい人と登ることのほうがいい場合もあるのかもしれないけど、歩行ペースがあわなかったりすると、ストレスになることもあるし・・。
重装備で数日かけるような山なら覚悟も必要で、準備も相当必要。だけど、山小屋で一旦泊っておおむね一泊二日で行ける山なら、一人のほうがよいような気がするし計画次第なのかもしれない。
ってことで、いろいろ情報をあつめて判断しようっと。
金曜日, 7月 13, 2012
日曜日, 7月 08, 2012
健康寿命で考える
厚労省が6月1日、「健康寿命」なる新しい指標を算出して発表したが、これにより“長寿大国日本”の現実が浮き彫りになった。
健康寿命とは、「介護を受けたり病気で寝たきりにならず、自立して健康に生活できる」年齢のこと。 発表された数字は、2010年は男性が70.42歳で、女性は73.62歳だった。 「これに対し、同年の平均寿命は男性79.55歳、女性が86.3歳。つまり、男性は9年余り、女性は約13年間、健康ではなくても“生かされている”ことがわかったのです」(健康雑誌記者)
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20120620/Weeklyjn_2047.html
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長生きが幸せなのかといった論点もそうだけど、「生きている」という定義自体が「死んでいない」だから、動けない・もっといえば人間らしい生活がおくれない状態でも長生きさせられる時代になっていることは身近にそういった状況がなくても想像しやすい。
ではその「生きている」ことと「人間らしい生活ができている」のギャップはどうやってみるかというと、この健康寿命と平均寿命との差で測ることができるとのこと。んで驚いたのが書いている通り、男9年女13年も平均でギャップがあるということ。つまりこの期間は定義しにくいが、きっと本人の意思に関係なく「生かされている」期間なのだろう。
すごく短絡的に考えると、たとえば男の場合で定年が65歳→健康寿命が70歳→平均寿命80歳だから丈夫でいられる5年、そして生かされる10年っていう計算になる。
尊厳死の問題があるけど、そこでも議論された生きるってことの本質は・・いったい・・。
自分なりに解があるとすれば、きっと「生きようとしている」「生きたいと強くおもう」そういった気持ちがあることなんだろうとおもうけど、そもそも意思表示ができないような状態になっていた場合って、家族がそういう風にくみ取るかっていう問題になってしまうし。
なので、医療技術の発展でこのギャップを生みだしたんだろうけど、介護という問題とあわせてみてもまずは「健康寿命」を平均寿命と近くなるようなことが理想なわけで、健康に気をつかうことこそだいじなんだなって思いました。
土曜日, 6月 09, 2012
そろそろあれですか。hatenaとかペパボとかドリコムとか
相対的にみれば自分も年を食うから、自分らの世代は20代だろうが30代だろうが40代になろうが、自分たちの世代であって、そんなに変わらないつもりだけどどうやら「流行り」というのは、その時勢の購買層があつい世代ではやっていることを指すような感じなんだろうと思う。
よって、ぼくらの世代って(30代中盤って)いままでずっと購買力が高いわけでもなく、どちらかといえばちょっとした小銭をよく使う世代な感じがするから、いまとなっては家庭の事情?で、小銭すらつかえないから「流行り」は生まれないんだろうなと。
そんなこんなで、流行っている携帯のゲームだとかAKBだとかに予算がつくはずもないから価値がさっぱりわからんわけで。
んで、タイトルのhatenaとかペパボとかドリコムとか振り返れば、地方から東京へ移って上場したネット関連のベンチャー企業っていう言い方になっていたような会社も創業から10年位たって、第二創業期っていうような感じで一斉に流れがかわったのがここんところ落ち着いてきたわけで。
ライブドアとか、少々ちがうけどUSENとか、CAとか、GMOとかサイボウズとかのその前10年選手が超えてきた、または落ちちゃった荒波が同じように寄せていたわけだ。
インターネットで儲かる「仕組み」をつくった世代の会社、その仕組みで「サービス」をつくった世代の会社、んでモバイル時代のスマホ・パラダイムシフトによって、ネットの「基礎」が変わるなかで、それぞれ「仕組み」「サービス」どっちも乗り遅れが勝敗をわけるような、しごくあたりまえのパラダイムシフトマネージメント力がものをいうことになっている。
そういう意味でいえば、モバげーとグリーとCAもそうだけど、実はモバイル時代ということ(ネットの基礎)には関係なく、遊びの「流行り」にうまく乗っているようにみられる。
つまり、土俵をかえた、ルールを変えたわけで。アップルさんのアレのような感じで、みるべき方向ってそうなんだろう。ネットの「基礎」がかわったのではなく、本質的にはいつでも・どこでも・ネットにつながることで生活の基礎が変わった、ライフスタイルが変わったからこそ「流行り」商売ができるようになった。そう考えることが正しいのだろう。
だけど、個人的には このライフスタイルに 「いつでも安心」っていう状態が抜けているのが心配。
モバイル・スマホ時代が、まだ性善説で成っているから不安に感じてないんだけど、べつに不安をあおるわけではないけど、そのテーゼがくずれるのも時間の問題だろうし、そんときどうするか・・ん有効なアイデアないよ。
土曜日, 5月 12, 2012
ガチャ商法の良しあしについて
かねてから(かなり主観的ですが)、モバげーやグリーの商法について、なんの生産性もなく、無意味なので批判的にみていたけど、やっとここいらで「消費者庁」が仕事らしい仕事をしてくれる様子。
ガチャ商法って何が悪いかと言えば、金の巻き上げ方が古典的な「絵合わせによる景品提供」といわれる(これ)なのだ。 つまり、
「二以上の種類の文字、絵、符号等を表示した符票のうち、異なる種類の符票の特定の組合せを提示させる方法を用いた懸賞による景品類の提供は、してはならない。」↓
ってことで、別々のあたりをくみあわせてもらえる景品のこと。つまり、金のエンゼルと銀のエンゼルとか、プロ野球チップスのラッキーカードとか、そういうたぐで「コンコルド効果」っていう、投資をやめられない(コンコルドの開発投資のあれです)という心理的効果で、いままでこれだけ金かけたんだから、もうちょっと足せばコレが手に入るっていうあれです。
無料っていっときながら、そういう仕組みでもうけたわけで。しかもこの法律、昭和52年からあるのに、ソーシャルゲームとかは、どうなのか判断が微妙で業界に自制を求めたっていうことも、ミソだったと思う。
ちょっと不思議なのは、じゃ、なんで反論しないですぐ自制するって決めて、しかもそろって足並み合わせているのはなぜだろう。・・って、悪いってわかってやってた確信犯で、敵がやめたら、こっちもやめよう的な牽制があったのだろう、と安易に想像できるし、このご時世伸びている産業がないから、虚無でも金になればいいやっていう、真理とは異なる「悪意なき愚業」がはびこってしまったのだろうなと。
さてさて、これから苦しくなるのは、子供じゃなくて、ゲームつくってたエンジニアの連中だな。ゲーム自体はパクリばっかしで創造性が唯一あったのはこの、ガチャのいやらしさだったわけで。それがもう駄目になったから、作る側はなにも持ってはいないんだろうなと。
あーでも、中国とかでおなじことやれそうだな。だから、アジア進出なのね。これは良しだな。