一昨年の末(2008-9)に、日比谷公園にできた「派遣村」。そして今年(2009-2010)もまたである。旧政権で決めたことだといえばそれまでだけど、はたしてなんかの成果ってあったのか。
一昨年の状況は、田中康夫氏いわく
>テントを張っている人々は突如企業からクビを切られたような人では無く、日々飯場のような仕事をしている人であり、「日比谷公園に行けばメシが食えるらしいぞ」と聞きつけてやってきた人が多かった。
現場にいったわけではないので田中氏の感想を率直に受ければ、下記で言われている今年のアヤマチが、その時点で垣間見えていたと思う。
・派遣村 所在不明200人 就活費2万円支給後、続出
とはいえ、今年の様子はどうかと言うと下記などを見ると
・特集ワイド:公設派遣村それぞれの物語 働き自立したい! 僕ら、どう見える?
・「雨宮処凛がゆく!」「公設派遣村」の年末年始。の巻
前向きな人を対象にインタビューしているせいか(というか、しっかり質問に応える人は前向きだろう)アヤマチではないような気もする。だけど、こういった部分的な見方をちょとすててみると分かることがある。
それは、日本のメディアでは語られない「自殺者」と「ホームレス」問題。派遣村の名前になったように、派遣で働いていたのが切られたという就業機会が失われたといった過程の問題ではなく、その延長にある結果として起こるこの2つの問題。
派遣村なんていう名前になったのは、湯浅氏そして全国ユニオンが当初、大義名分にしたかったとしか思えない。(だけど、その点を非難する気はない)というより、くさいものにふたをせず、この際だから「ホームレス支援」「自殺者をへらす支援」として、その手段の1つとして就業支援を行うことがあたりまえの姿だと思う。
つまり結局、それぞれの立場を利用しているから利害関係が生まれるし、結果をしっかりとらえて根本治癒をしようとしないから、部分的な一時しのぎにしかならない。
なお、湯浅氏の主張する「自己責任の過剰」については理解できるところがある。自他の持つ社会資本の格差(親の所得格差、人脈の有無など本人の努力以外の部分で社会における有利不利を決定づけるもの)を見落としているといった指摘だけども、戦後しばらく90年代位まで、残念ながら日本は個を排除する労働集約、そして官僚組織型が良しとされていたので、格差について意識が希薄になっていった。
そのため、「みんな同じ」だった。そして21世紀になり、小泉内閣が壊した(格差を生んだといわれる、みんな同じの価値観を壊すような政策)まぁ個人的に思うのは、もしかすると、壊したのではなく壊れていたものに気づかなかっただけで、小泉政権で、それが露呈してしまったようにも思える。
だからこそ、自己責任も「みんな同じ」ではなくなっているはずだし、上から目線ではなく下から目線でも、自分の環境に対して同じではない、個の違いを認識すべき時期だとおもう。
戦後、なにもないところからだったから、みんなが成長できたんだろう。(成長の幅で「みんな同じ」だと勘違いしていたのかも)そして現代は成長基調が望めないから、格差が顕在化しているんだろうし、それを個の違いとして認識することが大事だと思う。
特徴的なこととして、アメリカと比べると宗教的な慈善意識、そしてボランティアや私的寄付など日本では非常にマイナーな行為だし、イメージも良いとは言えない。(現実にニセ、偽善者もいるだろうし)これらは「みんな同じ」価値観だったら、そうだとおもう。だけど、個の違いが格差として表れてきたとしたら、アメリカのような感じになれるのだろうか。
この派遣村のアヤマチは、そこだと思う。
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