金曜日, 1月 08, 2010

服部氏と峯田電機

ってことで・・以下は、峯田のブログをみていて思ったこと。
ユニコーンの「服部」は1989年に3rdアルバムとして発売だったわけで、もう20年たったわけだ。

当時、まことしやかに、山形のドンと言われていた服部敬雄(山形新聞・山形交通の社長)を皮肉したものでは?とまでいわれた、あべBの意図。今もなお、真相については一切触れられず、都市伝説化してます。ちなみに当時はFM山形が開局した年。でも流れてた気がするけど。。このFM局はアンチ山新だったような。

たしかに服部敬雄氏について言えば、いまもなお語られること自体少ない。そして健在だった70年代?90年代前半は、信じられないくらい山形という地方は排他的で保守的な文化がつよく。その背景には、この人の権力がつよくあった。

 

高校が服部邸近くにあったから、服部家の前を通る事もよくあったので覚えているが、まさに豪農。村方地主の屋敷。つねに薄暗く、重い門がとじられていて人の気配はない。(今は、遺族が県に寄付したらしいが財政難で荒れ放題らしい)

山形新聞、山形放送、山形テレビ、山形交通・・。放送事業から生活インフラまで支配されていたわけで、山形で有名な「花笠まつり」は彼が始めたことでもある。そのため、そんだけ栄華を誇った一族が、90年代まで維持そして保身のために行った独裁的な権力行使は、当時「朝日ジャーナル」で(編集長は筑紫さんだった)山形のドンといった批判記事が掲載され話題にもなった。

詳しいことは、前記したとおり多くは語られてはいない。真相はよくわからん。

でも言えるのは、彼の没後、93年の県知事選から事態は激変し、いわば自由化の波が起こって、何かが終わって、何かが始まった。そんな感じだった。(ま、県政ってことでいえば、そのあとのいわゆる高橋県政についても、結局保守の上塗りだったわけで微妙だけど。)また、続けて言うと山形市政については、服部氏と深いつながりがあったとされる当時の金沢市長も94年に辞めて、その後の市長選挙では継承した佐藤氏が勝ったけどぱっとせず、2000年に4度目の出馬となった吉村氏が念願の山形市長になった。ミニバスケやってたから、吉村氏は県バスケ協会長だったので個人的に馴染みが深く、まさに、このタイミングでやっと服部氏から脱却し変わったといえると思う。しかし残念なことに、2003年に亡くなっており、現在の山形県知事の吉村氏は吉村前市長の親族だったりもする。

てな具合に92年から95年くらいにかけて、山形は変革にあったわけで、かくいう私も脱山形して上京してきたあたりの年なわけです。

んで同じ時期というか、2つ年下だけど尊敬のまなざしでみている、峯田も(てか、峯田電機の御曹司ということを最近知った)ゴイステ96年の結成なわけで。。



0 件のコメント: